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共通の関心
共有ビジョンとは「われわれは何を創造したいのか」という問いに対する答えである。個人のビジョンが、人がそれぞれ頭の中に描いている心象あるいはイメージであるのと同じように、共有ビジョンとは、組織の中のあらゆる人々が抱いている心象である。
組織に浸透し様々な活動への結束をもたらす共同体意識を、共有ビジョンは生み出す。人が共有ビジョンを築こうとする理由の一つは、重要な事業に関わりたいという欲求である。創造的学習は、人々が自分たちにとって非常に重要な何かを達成しようと奮闘しているときのみ可能である。
共有ビジョンとは、多くの人々が本当の意味でコミットメントするビジョンである。それは彼ら自身の個人的ビジョンを反映しているからだ。そこで今回は共有ビジョンを生むために様々な視点から取り上げてみたい。
さらに詳しい内容を知りたい方は 【 最強組織の法則―新時代のチームワークとは何か 】 を参照されたし。
なぜ共有ビジョンが重要か
多くの共有ビジョンは外因的なものである。敵に打ち勝つことに限定された目標は一時的なものだ。ひとたびそのビジョンが達成させるや「資産を守り、ナンバーワンの地位を失うまい」とする防御態勢に容易に移入しうる。
守勢の目標が、何か新しいものを築く創造力や興奮を呼び起こすことはまずない。武道の達人はおそらく「あらゆる相手を打ち負かす」ことに集中するのではなく、むしろ「武術を極める」という自己の内的な基準に焦点を合わせるのである。
これはビジョンが内因的か外因的かのどちからでなければならないという意味ではない。両方タイプが共存しうる。しかしただ敵を打ち負かすことだけに基づくビジョンに頼れば、長期的には組織が弱体化することもある。
個人のビジョンを奨励する
共有ビジョンに心から関心を抱くことは、個人のビジョンに根差している。この単純な事実が多くのリーダーには通じない。経営者らは、組織が明日までにビジョンを作り上げなければならないと決定を下すのである。
共有ビジョンを築くことに力を注ぐ組織は、個人ビジョンを創り出すようメンバーを絶えず励ます。自分自身のビジョンをもっていなければ、他の誰かのビジョンに加入するしかないからだ。
その結果もたらされるのは服従であって、コミットメントではない。これに対し、自らの進むべき方向を強く認識している人々は、結束して、自分達が真に望むものに向かって力強い相乗作用を生み出す。
高度なビジョンの実現に向けて最も貢献するのは、クリエイティブ・テンション(創造的緊張)を維持する、すなわちビジョンをはっきりと認識し、現状を究明しつづけることのできる人々であろう。そして、自らの未来を創造する能力を深く信じる人々であろう。
個人のビジョンを奨励するにあたって、組織は個人の自由を侵害しないように気をつけねばならない。ビジョンを認識しているリーダーが、他人がそのビジョン共有する気になるように、それを伝えることである。
ビジョナリ―・リーダーシップの技術は個人のビジョンから共有ビジョンを築く方法である。
個人のビジョンから共通ビジョンへ
共通ビジョンを築くというディシプリンをマスターする最初のステップは、ビジョンは常に上から申し渡されるもの。あるいは組織に制度化された立案プロセスから生まれるものだという従来の概念を捨て去ることだ。
従来のトップダウン型のビジョンでは、企業運営のしかたで経営幹部は、多くの場合コンサルの助けを借りて「ビジョン報告書」を書くことがあるが、それにもかかわらずいくつかの理由から、結果は期待外れであることが多い。
以下三つの理由からなる。
第一に、 ビジョンはたいてい「一度限りの」ビジョン、つまり会社の戦略にもっとも重要な方針と意義をあたえようとするその場だけの努力である。ひとたび文書化されれば、経営陣はこれでビジョンに関する自分の責務を果たしたと思い込む。それだけでは、ビジョンを組織のなかで「生き生きと」させることはまずない。
第二に、 結果として出来たビジョンが、スタッフ個人のビジョンに基づいていない。「戦略的ビジョン」を追求する際、多くの場合、個人のビジョンにまったく無視される。あるいは「公式ビジョン」は一人か二人の個人ビジョンだけを反映する。
第三に、 ビジョンは問題の解決ではない。そうした観点から見るならば、モラルの低さや戦略の方針の不明確さといった問題がなくなった場合、ビジョンを推し進めていたエネルギーもまた消えてなくなるだろう。共有ビジョンの構築は、リーダーの業務の中心的要素と考える必要があり、常に進行中で終わりが無いのだ。
優れたビジョンは、権限をもつ立場にないスタッフの、個人的ビジョンから生まれるときもある。組織のなかのあらゆる人々の個人的ビジョンと結びついてはじめて、それは本当の意味で共通ビジョンとなるのである。
しかがってリーダーシップを執る立場の人々にとってもっとも重要なのは、自分のビジョンもやはり個人のビジョンなのだと肝に銘ずることだ。共有ビジョンを築くためにリーダーは、個人ビジョンをたえず共有する心構えがなくてはならない。経歴中ずっと、目標を設定し、それをただアナウンスするだけだった人は、支援を求めることが非常に困難となる。
本当の意味で共有させるビジョンは、時間をかけて現れる。それは個人的ビジョンの相互作用の副産物として生まれる。心から共有されるビジョンは継続的な対話を必要とするということである。耳を傾けることによって、可能な事柄への新たな洞察が次第に浮かび上がってくるのである。
経営者にとって、聞くことは多種多様なアイデアを受け入れる並外れた寛容さと心構えが必要である。われわれの個人のビジョンすべてを超越し、統合する正しい行動指針に向けて耳を傾けながら、多数のビジョンの共存を認めなければならないのだ。
ビジョンを普及させる
【関連書籍】当たりだった書籍。合わせて読んでいくと深い理解が得られる書籍だと思います。
現在コミットメントと受けとめられているものの九割は服従である。
例えば、社員にビジョンの「権利を買わせる」という表現を使うことがある。「売る」と「メンバーに加える」のあいだには雲泥の差がある。
「売る」とは一般的に、もしずべての事実を完全に掌握していれば相手が行わないかもしれない何かを、相手にやらせることを意味する。これに対し「メンバーに加える」の文字通りの意味は「名前を名簿に載せる」ことである。参加は自由選択の意味を含むが「売られる」はそうでないことが多い。
現代のほとんどの組織では、参加している人々は相対的にごく少数である。コミットしている人はさらに少ない。大多数の人々は「服従」の状態にある。「従順な」追随者たちはビジョンに同調する。彼らは自分たちに期待されていることを行う。ある程度まで、ビジョンをサポートする。本当の意味で参加したりコミットしていない。
服従は、参加やコミットメントと混同される場合が多い。これには一つには、服従が大半の組織で非常に長い間幅をきかせており、われわれが真のコミットメントをどうやって見分ければよいのか分からないために起こる。またいつくかのレベルの服従があり、なかには参加やコミットメントに非常に良く似た行動をもたらすものがあることである。
ビジョンに対してとりうる態度
【 コミットメント 】
どうしても実現させようとする。必要ならいかなる「法」を創り出す。
【 参加 】
「法の精神」の範囲内でできることは何でもしようとする。
【 心からの服従 】
ビジョンの利点を認めている。期待されるすべて、それ以上のことをする。「法」に従う「良き兵士」である。
【 形だけの服従 】
ビジョンの利点をおおむね認めている。期待されることは行うが、それ以上のことはしない。「かなり良き兵士」である。
【 嫌々ながらの服従 】
ビジョンの利点を認めていない。かといって失業したくない。それが仕事だからという理由で、期待されることはある程度までする。自分があまり乗り気でないことを周囲に示す。
【 不服従 】
ビジョンの利点を認めず、期待されることをするつもりもない。
【無関心】
ビジョンに賛成でも反対でもない。興味なし。エネルギーなし。「もう五時になったの?」
ほとんどの組織では、働く人々の大半は、組織の目標や基本規則に対して、形式的にあるいは心から服従した状態にある。プログラムに従い、真摯に貢献する、これに対し、あるいはしぶしぶ従っている人々は、かたくなに抵抗する。
あるいは「悪意のある従順さ」「ただ、それがうまくいかないことを証明するためにする」ことによって自分たちが反対であることを知らせる。服従のさまざまなレベル間の違いは、微妙なこともある。いちばん問題があるのは、心から服従した状態である。
参加やコミットメントとよく間違えられる。心から服従している典型的な「良き兵士」は自分に期待されていることは何でもこころよく行うだろう。心から服従して働いている人は、自分自身の心の中では、自分はコミットしていると考えている場合が多い。実際コミットしているのだが、ただ「チームの一部」であることにコミットしているにすぎない。
心から服従している人と、参加あるいはコミットしている人を、職場での行動から見分けるのは、多くの場合難しい。心から服従する人々は、形に現れるものとそうでないものの両方の「ゲームのルール」により、プレーするために、できることは何でもしようとするだろう。
服従とコミットメントのあいだに雲泥の差があることは事実だ。コミットした人は「ゲームのルール」に基づくプレーはしない。ゲームに責任はもつが、ゲームのルールがビジョン達成の障害になれば、ルールを変える方法を見つけるだろう。
共通のビジョンに本当の意味でコミットした人々が集まれば、とてつもない力となる。不可能に見えることを成し遂げることができる。心から服従していることと、参加あるいはコミットしていることの違いは何か。答えは簡単だ。参加あるいはコミットしている人々は、ビジョンを真に望む。心から服従している人々は、ビジョンを受け入れる。彼らは別の何かを得るために、それを望むのかもしれない。職を維持する、ボスを喜ばせる、昇進するなど。
しかし、服従している人々はビジョンそれ自体を、またはそれだけを、本当の意味で望んではいないのだ。それは彼ら自身のビジョンではないからである。
たとえばある企業では、社員はあいかわらず命令に従い、いわれたことを行うばかりであった。問題は深く組織で働く社員は、それまで何事にしろコミットメントするよう求められることはなかったのである。
社員に求められていたのは、ただ従うことだけだった。それしか仕事のやり方しか知らなかったのだ。それが社員たちの唯一のメンタル・モデルだった。
従来の組織は従業員の参加やコミットメントには関心がなかった。階級制に基づき命令・管理する組織は、ただ服従のみを求めた。コミットメントを通じて解き放たれたエネルギーをコントロールしたり方向づけできるかどうかに、多くの管理職が慎重だ。結局は服従で手を打ち、社員達に服従の出世コースを歩ませることに甘んじているのである。
参加とコミットメントのための指針
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参加とは、ビジョンへの本物の熱意と、他の人々が自分自身の選択と意思決定をするようになることを許す心構えから生じる自然なプロセスである。
● あなた自身が参加すること
自分が参加してないのに、他の人に参加を勧めようとしても無駄だ。それは参加を促すのではなく「売りつける」ことであり、うわべだけの同意や服従といった形を生むのがせいぜいだろう。悪くすると、将来の反感の種をまくことになる。
● 正直であること
利点を誇張したり、問題の隠し立てをしてはならない。ビジョンをできるだけ簡単に正直に述べよ。
● 他人に選択と意思決定をする自由を許す
他の人にビジョンの利点を「納得させる」必要は無い。人を説得して「参加」させようと努力しても、巧みな操縦と受け取られるだろうし、実際参加を妨げる。
あなたがこころよく人に自由な選択と意思決定を許すようになればなるほど、その人は気分的に自由になるだろう。
部下に浸透させるのは難しいだろうが、彼らは従わなければならないと感じるだろうが、それでも彼らが自分なりにビジョンを認識するための時間や安全を創り出してやることによって、手助けすることはできる。
肯定的 VS 否定的ビジョン
実際には、否定的ビジョンの方が、肯定的ビジョンよりもおそらく一般的である。組織の多くが本当の意味でまとまるのは、その存続が脅かされているときである。買収される、倒産する、失業する、マーケットシェアを失う、収益が下降する、または「自社の次期新製品を競合会社に出し抜かれる」を回避することに結束する。
しかし否定的ビジョンは、次の三つの理由から、制限的なものである。
- 新しい何かを築くことができるはずのエネルギーが、われわれにとって起きてほしくないことを防止するという方向に向けられる。
- 否定的ビジョンは、役立たずであるということ。社員がまったく無頓着で、協力できるとすれば、十分な脅威が存在するときだけだ。
- 否定的ビジョンは短期的にならざるをえない。脅威が存在し続ける間には組織は動機づけされている。ひとたび脅威が去れば、組織のビジョンやエネルギーも消え失せる。
組織を動機づけできる基本的なエネルギー源は二つある。不安と向上心だ。不安のもつ力が否定的ビジョンの根底にある。向上心のもつ力が、肯定的ビジョンを動かす。不安は、短期的に驚きべき変化を生み出すこともありうるが、向上心は、学習と成長の絶えざる源として存続するのである。
共有ビジョンとシステム思考
ビジョンは、われわれが創造したいと思うものの絵を描く。システム思考は、私達が現在もっているものをどうやって創造してきたかを、明らかにする。慎重に練られている限り、共有ビジョンそれ自体に問題はない。
問題は、目下の現実に対する私達の受け身の姿勢にある。多くの組織では「われわれは未来を創造できない」という考え方は大変脅威であり、けっして認めることはできないため、こうした態度は把握しにくいこともある。
組織が着手したことを達成できるかどうか公然と疑問を投げかける者は、たちまち「不参加者」のレッテルを貼られ、問題児扱いされるのだ。
しかしながら、この「成せばなる」の楽観主義は、根本にある受け身の考え方をおおっている薄っぺらな飾りにすぎない。なぜなら大半の組織はシステム思考ではなく、直感的思考に支配されているからだ。
「成り行き思考」が優勢を占めると、肝心なのは変化を生み出すことでなく、変化に対応することだと人々は考える。成り行き型の態度は、結局は真のビジョンを追い出し、あとに残るのは、ただもぬけの殻の「ビジョン報告書」けっして心に刻まれはしない結構なアイデアだけだろう。
既存のポリシーや行動がどのように現状を創り出しているのかを、組織の人々が学びはじめるにつれ、ビジョンのための新しい、より肥沃な土壌ができてくる。自信の新たな源が生まれる。
その源とは、現状を形作っている力をより深く理解し、そうした力に影響を及ぼすレバレッジを見分ける能力なのだ。
参照文献 組織とは、チームとは、学習していく組織とは、と問いを立てながら読んだ。とても良い書籍でした。
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