【 メッテルニヒ 】 危機と混迷を乗り切った保守政治家~ ナポレオン帝政を阻止し勢力均衡に導いた外交手腕は一流 だが 宰相として国家運営能力は二流

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オーストリアの保守政治家

1809年より外相に就任する。1810年にナポレオン1世と皇女マリア・ルイーゼとの結婚の仲介役となった。ナポレオンがモスクワ遠征に失敗、さらにライプツィヒの「諸国民戦争」に敗北すると、反ナポレオン的な国際秩序の形成に尽力した。

1814年より始まったウィーン会議において、オーストリア外相として中心的役割を果たし、国際政治における勢力均衡・反革命的な正統主義に基づくヨーロッパ国際秩序の創出を図った。

【 メッテルニヒ 】

1809年より外相に就任する。1810年にナポレオン1世と皇女マリア・ルイーゼとの結婚の仲介役となった。ナポレオンがモスクワ遠征に失敗、さらにライプツィヒの「諸国民戦争」に敗北すると、反ナポレオン的な国際秩序の形成に尽力した。1814年より始まったウィーン会議において、オーストリア外相として中心的役割を果たし、国際政治における勢力均衡・反革命的な正統主義に基づくヨーロッパ国際秩序の創出を図った。

さらに詳しい内容を知りたい方は【 メッテルニヒ  】 を参照していただきたい。

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18 世紀のロココ風の人物

メッテルニヒは「複雑で繊細に彫刻され、すべての面が微妙なプリズムのように輝くロココ風人物」とキッシンジャーは見てこう言っている。

彼を生み出した時代のように、メッテルニヒのスタイルは、意思をもってする斗いよりも、与えられた要因を巧みに操ることに向いており、一定の尺度を通じるよりも、つり合いを通じて物事を達成することに向いていた。

彼はロココ型の人間で、全面が複雑に美しく彫刻され、そして精巧に磨かれたプリズムのようであった。その顔立ちは、繊細であったが深みがある方ではなかった。彼の会話は才気煥発であったが、つきつめた真面目さを欠いていた。

彼は家庭でもサロンでも、そして内閣でも、同じように優雅であり人当りが良かったように、内容が真実どうかによってではなく、そのように存在することによって正当化されるという18世紀の貴族の持つ美の極致であった。

そして彼が新時代の重要性を理解しなかったからではなく、新時代を軽蔑していたからであった。その意味では、彼の運命は、オーストリアの運命であった。 

キッシンジャー

キッシンジャーはプラス面もマイナス面も冷静に見ていて、別に特別なメッテルニヒの単なる礼賛者ではない。
革命、19世紀に対するぺシミズムも含めて核心を突いた人物評である。

対仏における巧みな外交手腕

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彼は、早くからナポレオン没落後の新しいヨーロッパと平和を保障を構想し、安定した国際秩序のヨーロッパ構築を考えていたようだ。

同盟の最高指揮権を手に入れ、その領土から戦火をそらし、諸国家の連合を国民でなく政府を基礎としたものにし、それによってオーストリアの今後の存続した形の平和の正当化を確保した。

キッシンジャー

マリー・ルイーゼとナポレオンの結婚、フランスとの同盟、ロシア遠征での武装中立、ロシアとフランスの和平調停、ナポレオンへの講和説得、宣戦布告、連合国の最高指導者としての勝利、ウィーン会議の議長という数年で目まぐるしい足取りで、矢継ぎ早でヨーロッパの「勢力均衡」のための平和という目標に向かって論理的に一貫した外交戦略を展開してる。こうして卓越した比類なき優れた外交手腕と識見によって平和がもたらされたのである。

【 対仏大同盟 】

フランス革命戦争およびナポレオン戦争において、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国が、フランス第一共和制およびフランス第一帝政の打倒を目的として結成した同盟である。1793年の第一次対仏大同盟から、1815年の第七次対仏大同盟まで、7回にわたって同盟が結成された。

ナポレオンに対する複雑な気持ち

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メッテルニヒには、称賛すべき点があった。彼は、ナショナリズムがヨーロッパにもたらす混乱と破壊を予見し、ヨーロッパの共同責任に対して、濁りない目を持っていた。1814年、理性的和平が結ばれたのは、彼の功績だった。だが彼には希望がなかった。彼は未来に、なにものも期待せず、未来を恐れた。

独歴史家 ゴーロ・マン

彼のナポレオンの評価は非常に複雑だ。個人的には、好意をもっており、その人間的な魅力、多方面にわたる優れた才能、素早い決断力など、その天才ぶりを褒める傍ら、軍靴でヨーロッパ中を踏みにじり、破壊していったことに対する言い知れぬ怒りと義憤を感じ、際限のない野心を抑える自制心もなく、その欠点が身を滅ぼしたと語っている。

敬意を表していた良きライバルを失ってからの彼の後半生は、今後精彩さを欠いていくことになるのだが、ナポレオンのロシア遠征の敗北で、もはや立ち上がれないことを確信し、フランスが余りにも弱体化して、ロシアの支配を招き、ヨーロッパの勢力の均衡が崩れることを恐れ、ナポレオンのフランスにも執拗に和平を呼びかけた。

優れたバランス感覚は流石であり、平和秩序構築を目指した点は評価できる。

【 ナポレオン戦争後の欧州での影響 】

各国の利害が錯綜して進展の遅れていたウィーン会議は、ナポレオンがエルバ島を脱出すると各国の妥協が成立し、1815年6月にウィーン議定書が合意された。

ナポレオンの完全失脚後、主要戦勝国によって神聖同盟が結ばれ、ヨーロッパは復古主義・正統主義を原理とするウィーン体制下に置かれることとなった。

ナポレオン戦争の過程で、民主主義、近代法、特権階級の廃止などのフランス革命思想が、ヨーロッパ各地やラテンアメリカなど一部の植民地へ伝播した。

ナポレオン戦争は民族主義が広まる契機となった。民族主義はヨーロッパの歴史を大きく変え、その後100年間に、ヨーロッパ諸国は封建領主の領土を単位とした領域から国民国家へと変貌した。

国民の人気が沸かない指導者

 

ナポレオン戦争で外交手腕がもっとも必要な時代から、この領域での才能のあるメッテルニヒは宰相までのぼりつめたが、オーストリア内政については、経験も少なく、良く知っているとはいえなかった。なにしろ広大な国で目が届かなかったのである。

メッテルニヒは国民の気風の改革を考えたことのない指導者であった。

キッシンジャー

彼の後半生の停滞、ジレンマが始まる。どうやらメッテルニヒは、大衆をうごかすような能力、大衆の心に訴える感覚は持ち合わせていなかったようだ。

彼は旧派に属する人で、美貌に恵まれ、虚栄心が強く、教養があり、利巧だった。個人としては享楽的で、満足していたが、政治家としては悲観的で、現状を守ることだけを心掛けていた。

ロシア・トルコと境を接する多様な大国家組織に奉職する西ヨーロッパ人で、貴族的教育を受け、フランス的教養を身に付け、志向するところはヨーロッパ的だった。

大きな全体のため気をくばったと主張できる人があったとすれば、それはメッテルニヒ氏であった。

近代ドイツ史Ⅰ:ゴーロ・マン

ウィーン会議以降、宰相としては、国民生活の向上、難しい多民族国家の運営という問題に直面し、メッテルニヒは次第に時代の流れ、要請から食い違っていった。

君主には忠実な宰相

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著者自身、メッテルニヒの政治理論を何度も読んだそうだが、いまだに分からないようだ。

フランツ皇帝は 1835 年に世を去るが、その後のフェルディナンド一世は頭の弱い病弱の皇帝であり、会議も主宰できないほどだった。「 これでも皇帝か 」 と君主制に疑問が起こらないだろうかと思うほどである。

メッテルニヒはそれでも、制度としての皇帝を忠実に従順に十分補佐したのである。彼にとって皇帝は絶対であった。

またフェルディナンド一世は頭の弱い病弱の皇帝であったため、弟のカールを皇帝にしようとの案があったが、それでは世襲君主制の原則が崩れるとのメッテルニヒの主張で、フェルディナンド一世が後継皇帝になり、大公やメッテルニヒによる補佐制度ができ、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々から内心、煙たがられていた。

なかでも皇帝になれなかった弟のカール大公夫妻は、メッテルニヒを恨んでいた。後に皇后エリザベートの姑になる大公妃のゾフィーは、メッテルニヒ追放の陰謀を企てる急先鋒の一人となり、失脚の芽衣を生むことになる。

評価の難しいオーストリア宰相

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なんとも歴史的評価のしづらい政治家である。前半生の類まれなる外交官としての才能があり、ナポレオン帝政を阻止し、欧州全体に外交を以て平和に導いた立役者であるが、後半生の宰相としての政治的停滞とジレンマを招いた張本人であるが、様々な人々がこの人物を研究しているが、はっきりとした評価が定まっていない。

たまにいるが、早熟で早くから才能を発揮し、若くして頭角を表すが、歳を取るとともに精彩さを欠く人になっていく人がたまに散見させるが、その類なのかなぁと読んでいったわけだが。

この人物は、ある枠の中では最大限能力を発揮するが、その枠が違ったり、新しくしなければならない場合にとたんに弱くなるタイプかもしれない。その枠とは、彼の専門の外交の世界であり、ハプスブルク=ロートリンゲン家の政治体制である。

これに似て、位が上がっていけばいくほど、無能になっていく、【 ピーターの法則 創造的無能のすすめ  】 を思い出したりして、それを合わせて読んだりして、また面白かったわけです。

少し前に 【  戦争の世界史―技術と軍隊と社会 】 を合わせて読んだが、今回も時代考証上、軍事組織について理解を深めた。

ナポレオンとの外交における各国間の駆け引きは、外交官として政治家としては一流であるし、これについては異論はないが、ナポレオン戦争後の自国内の宰相としての政治力は、残念ながら二流の域を出ない。

当時誰も国家運営の舵取りができる人物がいなかったのが、オーストリア帝国の悲運であって、衰退を招く一因といえる。彼の生涯を通じて混迷する多民族国家の帝国の危機と衰退を見れたのが一番の収穫であった。

読みやすくよくまとまっており おススメである。

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関連文献 事例ごとに読み進みじっくり理解すれば、読みやすくとても良い書籍でした。

参照画像 【Klemens von Metternich】 
参照画像 【Napoleon】 
参照画像 【Napoleonic Wars】 
参照画像 【Franz II, Holy Roman Emperor】 
参照画像 【Stichworte】
参照画像 【Les Grandes Batailles Napoléoniennes ( 7 septembre 1793 – 18 juin 1815 )】

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